横浜高工の同窓の方の資料

 同窓会誌の復刻版より ミヤザキの人柄を追ってみます。

 

 


 足あと 第4号より 

  級友のあしあと   宮崎松一郎 君  より  松野清彦 著

  ※一時帰国して 故郷に戻ったときのエピソードです

 

 

  「    (前略)

  故郷の大分県日田市では地方紙に大々的にその戦績が報道されたのであろう

 『英雄宮崎中尉』として町は歓迎に沸いた。

  宮崎の出身中学は大分県の日田中学である。   

      (中略)

   宮崎は横浜を卒業した年の12月に早くも、久留米の工兵第18連隊に入隊、翌年5月に

  満州の牡丹江省の東寧に行ったが、11月には松戸の工兵学校に入校した。

  松戸を卒業後、工兵第56連隊付となり 前記ビルマ作戦に参加し、戦功をあげて

  凱旋除隊した。

 

  郷里に戻った宮崎は後に述べる和田の帰国の時と異なり、沈滞気味の戦況の中で物憂い故郷に

  日焼けして濃い眉毛のりりしいスマートな宮崎中尉の帰還は町の空気を一新し町内会、

  婦人会、子供会などなど勝いくさの話をと引っ張り蛸だったという。

  

  彼はすっかり町の人気者になった。

  しかし、戦時中のことであり彼は早々と勤務先である東京ガスに戻った。

 

  郷里ではお嫁さんの話もあったが、本人は「また何時、赤紙が来るかわからん」といい、

  遂に結婚しなかったという。

 

  果せるかな、帰国後1年もしない内に再召集された。今度は久留米連隊から熊本連隊に移った。

  飛行場設定隊の部隊編成のためであった。そして二ヶ中隊が編成されその内の一ヶ中隊の

  中隊長としてフィリッピンのレイテ島に渡った。

  最期は殆ど玉砕だったと云う。

 

      (中略)

  大岡昇平著「レイテ戦記」下巻に宮崎は名前を連ねている。

  第102師団工兵隊第二中隊長だった。」

 

    


あしあと

     第11期生建築卒業生会誌 昭和19年1月30日 発行   横浜高工建築学科教室

                    (復刻版 平成3年3月3日発刊)

   

   其の後の面々  より

 

  「宮崎松一郎

    

    東京ガスから入営。満州国境警備、松戸工兵学校、等を経て15年5月

   西部第52部隊付とあり、17年2月ビルマ作戦に参加、

   サイゴン→ラングーン→シヤン→ラシオ→雲南 と転戦。

   赫々たる武勲をたて、18年3月内地帰還、召集解除となりました。

 

   出征間に描いたスケッチ百数十点は東京で開催した第二回同期生会に集まった

   一同を驚嘆させました。

   今は妹さんの家に用心棒となって住み込んでおります。

 

   彼の風貌は一寸日本人離れして南方系……

   「俺の母の日本人で、父はビルマ人だ」と吹張したところ、あちらの現住民に

   随分もてたとの事。

   二度程学校にも来ましたが、飄々として居て又忙しそうなところは昔と変わらず、

   ただいま会社で鉄筋鉄骨と格闘中。戦地の方が余程面白いらしく、お召しが来たら

   飛んで行くとか。

   因に彼は内地に帰って体重三貫目減ったそうです。」